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アザヤイタ interview
- SPECIAL -

アザヤイタ interview

不器用で荒くて、未熟でやさしい。こころの奥行きが生み出す想いと願いを言葉に詰め込んで、ただひたすらに唄う。バンド編成も曲構成も、その言葉が突き抜ける為のシンプルな造り。見事なバランスセンスの今作品『人は愛を唄う』は、彼等にとって初の音源である。キャリア以上のレベルにある悟りの思考や心を掴むバースの羅列は、現時点で既に今後のバンドの大きな飛躍を連想させる。

Interview & Text : 鞘師 至

―結成して1年とは思えないような歌詞の深みにどうやっても気持ちを持ってかれますが、このバンド以前にも音楽活動は?

深井 一史(Vo./Gt. 以下 “F”):このバンド以前はがっつりパンクバンドやってました(笑)。

兼子 大智(Dr. 以下 “K”):僕はスクリーモ / ポストハードコア的なバンドをやってましたね。

斉藤 由紀(Ba./Cho. 以下”S”):私はスリーピースの歌ものバンドやってました。

F:よくもまあこんなにバラバラな事やってたメンバーで集まれたなとつくづく思いますね。

-歌詞が何か悟った感じというか、どこかで何かに気付いて生まれ変わった後の自分を描写しているようなものが多かったので、活動1年だけのキャリアじゃない要素がバックグラウンドにある気がして。

F:僕なんかで言えばずいぶん違う音楽やってましたね、以前は。「俺の良さが何で分からねえんだ!このやろー!」みたいな事叫んでました(笑)。

-それがこんなに愛のある歌を歌うように。。。何かあったんですか(笑)?「いたいのかい(M6)」なんて正に生まれ変わった事を歌ったかのような歌詞ですし。

F:その曲書いた時はいろいろありましたね、確かに。これ、アザヤイタをやり始めた時の曲です。このアルバムの曲は全部、自分にこれからに起こる事、今現在起きている事、過去にあった事の3パターンのどれかに当てはめて作ったんですけど、「いたいのかい」はその時系列がくっきり出てる曲ですね。今までの自分の気持ちを経て今の自分の考えに至っていて、それが『人は愛を唄う』っていうタイトルにも繋がってる、っていう。

-「受け止めた気持ちをただひたすらに書き出したものがこれほど突き刺さる唄だとは」というくだり、それに気付いたのがアザヤイタの始まり?

F:時期的にはそうだと思います。自分の家はおやじが前から身体の具合が悪かったり、姉も精神的に不安定な時期があったりで母親はそれを一手に支えながら生活してたんですけど、そんな時期に自分自身も続けてたサラリーマン人生を辞めて、なおさら母親の負担を増やしてしまっていて。アザヤイタを始めたくらいの時、ある日スタジオに行こうと家を出る際に玄関で母親に「がんばってね」って言われたんですよ。「俺はこの人と比べて何をがんばってるんだろう」ってその日ずっとぐるぐる頭を巡ってて、家に帰ってすぐに吐きながら泣いてしまったくらい情けなくって、思い詰めた事があって。その時30分くらいで書いた曲がこの曲です。

-他の曲にも同様に、「俺、分かったんだよね」的な何かに気付いて変わった、というような歌詞がありました。同じ時期にその転換期があったんですか?

F:特に大きかったのは、高卒でサラリーマンを3年間やって「あぁ、このままじゃ駄目になる」っていう危機感を感じて仕事辞めた後、7ヶ月間ニート生活してた時期ですね。その時、人生の一生分休めたなって感覚があって、そこから多分精神的に浄化されたんだと思いますけど、初めて自分のやりたい事を積極的にやる決心がついて、物事や世の中の見え方がどんどん変わっていきました。そこから今みたいな曲を書くようになったかな、と思います。リード曲の「アザヤイタ」はまだその気付きの初歩段階で書いたのが浮き彫りになってて、ここから踏み出せるのか?どうなんだ?俺!みたいな後ろめたさとか迷いとかがまだ混在してる曲なんですけど、その後になるに連れて少しずつ悟った考えを書くようになってきましたね。パンクバンドやってた時は現状から抜け出せずにいる反骨精神の塊みたいなボーカルやってたんで、確かにずいぶん変わりました(笑)。そこから脱したバンドがアザヤイタですね。

-そのアザヤイタ結成、川越で出会って活動開始?

F:僕が当時川越のスタジオで働いてて、ユキちゃん(斉藤 由紀)とは高校時代から知り合いだったんですけど、ドラムだけなかなかこいつだ!と思う人が見つからなくて、ようやくピンと来たのが大智(兼子 大智)だったんですよ。で、ちゃんと気持ちが伝わらないと駄目だと思って、直筆のお手紙を書きました(笑)。そしたら2日後くらいにはもう大智から、もちろんやるでしょ的な返答が帰ってきて、そこでバンド結成ですね。その時にはもうアザヤイタっていうバンド名でこういう曲をやる、っていう構想と曲のラフも全部揃ってたんで、二人にはそれをそのまま提案しました。「こういうバンドやるけど一緒にやらない?」って。

-デモを渡された時、どんな印象でした?

K:最初は深井さん(深井 一史)パンクバンドやってるし恐そうだし、超嫌いだったんですよ(笑)。でも自分が以前のバンドのスパルタ方針で毎日1曲ドラムの課題曲を完全コピーしなければいけなくて、深井さんの働いてるスタジオに大学の授業サボってよく入ってた時に、「学校と両立も出来てないし、俺もう嫌です、バンドも大学辞めて実家帰りたいです」って愚痴言ってたのをずっと聞いてくれてて、結果的にけっこう心の支えだったんです。そしたらある日デモと手紙をそのスタジオで渡されて、超びっくりしましたけど、家に帰ってデモ聴いてすぐに「このバンドやろう」って決めました。やってる音は前のバンドと全然違ったけど、その時期の自分のヘコんでた気持ちに曲と歌詞がすごいグッときて、救われたというか。デモ渡されてからもうずっと聴いてましたね。

S:私の場合はこのバンドやるきっかけが深井さんからのメールで、池袋に一人でいたら「今電話できる?」って入ってきて、電話に出て開口一番に「ユキちゃん売れたい?」って(笑)。その時私がやってたバンドに良い話でも振ってくれるかと思ったら「俺とバンドやらない?」って言われて。私、普通に深井さんの当時やってたバンドのファンでよくライブも見に行ってたんで超びっくりして池袋の駅前で、えー!って絶叫しちゃいました(笑)。でもその連絡貰った時から気持ちは前向きで、その後しばらくしてアザヤイタをやる事を決めたんです。私も入り口は驚きしかなかったけど、深井さんとバンドやる事に未来を感じたし、タイミング的にもちょうど前のバンドを抜けるが解散する時期だったので、全てがほんとに奇麗に重なった感じでした。

K:結成の瞬間はかなり運命的でしたね。今の事務所の担当と出会った時もミラクルでしたし。深井さんは俺たち2人をこのバンドに引きずり込んだ責任みたいのを感じてて、結成した頃ずっとメンバーを音楽で飯食わしてく、っていうことにこだわってすごいプレッシャーを抱え込んでたんですよ。歌詞も書いて曲も書いて、俺なんかの何倍も大変だろうに。初めて数ヶ月活動したくらいで簡単に事務所やレーベルと良い関係性が生まれるはずはないんですけど、もう俺たちに宣言しちゃったもんだから、プレッシャーでノイローゼ気味になってて。そのくらいの時期にライブハウスで今のスタッフさんから声をかけられて事務所にも入る事になったんです。俺的には、これで深井さんの肩の荷が軽くなる!って思って気持ちが明るくなりました(笑)。

F:でもまだこれからですからね。今回ファーストアルバムリリースでやっと動き始めたと思うんで、これからとにかく曲を書いて、レコーディングして、皆さんに聴いてもらって、っていうサイクルをより多くやっていきたいです。作品出すごとにその喜びを共有できる人たちがいてくれてそれを知れた時っていうのが心の支えですね。それがなかったら今までもやれてないと思うし。 伝えたい想いみたいな大義名分はないですけど、まずは自分の思ってる事をかたちに出来て、生み出し続けることが目標です。