1月13日
『たばこの日』
1946年、高級たばこピースが発売されたのがこの日です。
「いつからだっけな」
思い出せたら思い出そう、と。女はそんな態度で頭を傾げてみせた。
「いつからでも、まアいいんだけどね」
「忘れちゃった」
女があっけらかんと笑って言うので、担当医の女は少し呆れた様子でカルテに視線をやった。「別段今は身体に異常はないみたいだけどね、それはあんたが若いからだよ」
「え、先生だって若いじゃん」
女が腰掛けている診察室の丸椅子が少し軋んだ。
「あんたに比べたら全然若くないよ。とりあえずやめるに越したことはないから」女医はそう言って禁煙外来のパンフレットを女に渡した。「あんたの身体だからね、好きにすればいいんだけどさ」
「え、冷たくない?」
「冷たくない」
「冷たいよ」
「まア、温かくはないね」
女は、何それ、と笑って言った。パンフレットを流し見すると、半分に折ってブランドものの鞄に雑に突っ込んだ。
「彼氏の影響」
「何?」女医は訊いた。
「たばこ、昔の彼氏の影響。うウんと、だから十八歳かな」
「あのね、十八でたばこを吸ってはいけません」
「えへへ。なんか、本当は彼氏っていうか、なんだかよくわからない関係だったんだけどね。その人、家でたばこ吸うとき換気扇のとこ行っちゃうの。その時間がなんだか寂しくって」
「あら、なんだか健気ね」
「あの時はね、すれてなかったから。あはは、自分で言ってりゃ世話ないか。ちっとも幸せじゃなかったし、たくさん嘘つかれたし、お金も全然なかったのに。なんでなんだろうね、あの時のこと、今でもたまに思い出すんだ。先生そういうの、ない?」
女医は急に話を振られて驚いた。少し考えて、何かを言いかけて、やめた。
「何、今の何、先生何か言おうとしたでしょ」女は嬉しそうに言った。
「うるさいわね、診察終わったんだから帰りなさい」
「窓の外見て、一人でたばこ吸って彼が帰ってくるの待ってるの。私、可愛くない? 家の側を通る電車の数数えて、いつの間にか終電終わっててすごく静かになって、みたいな」
「今と大違いね」
「あはは、先生よくわかってる。待ってることとか、何かを数えて過ごす時間を持つとか、いつからしなくなちゃったんだろ。あの時私、電車が通る音聞いただけで8両編成か、10両編成かわかったんだよ。なんかそういう、どうでもいいそういうの、いつの間にか一つもなくなってることに気付いて、私こないだびっくりして声上げちゃった」
「そうね、浪費しているように感じてた時間の中に、今じゃ見えないものたくさんあったのかもね」
女は身を乗り出した。「え、何? 先生なんかセンチメンタル?」
「ほら、さっさと帰る。私は昼休憩に入ります。お大事に」
「え、冷たくない?」
「温かくはないって言ってるでしょ」
女はひとしきり笑うと、手を振って出て行った。
やおら立ち上がり「休憩入ります」と受付に声をかけると、白衣を脱いでコートを羽織った。裏口から外に出て、ポケットに手を突っ込んで見上げる空から柔らかい日差しがゆっくり伸びてきて、女医は軽く目を細めた。
座りっぱなしで酷使した腰を伸ばすと、骨か小さく鳴った。ポケットからたばこを取り出して咥え、しばらくしてから火をつけた。ゆっくり吸い込む。
「なんでなんだろうね」
乾いた空気に紫煙が揺れて、今じゃ光と混ざって、もう見えなくて。